ようやく、色づいて見ごろとなりました。
部分的に散っているところもありますが、今が一番かもです。
 
 
藩主御殿庭園

 

江戸時代(1603年~1868年)の森藩久留島氏陣屋跡の西側にある丘陵(末広山)を利用してつくられた庭園。8代藩主通嘉の時に神社造営と合わせて一大土木工事が行われ、現在の形となった。陣屋の周囲には武家屋敷が配置され、南側には町人町が伸びる縦長型の城下町がある。

 庭園は、末広山東傾斜面と裾部を利用した御殿に面する藩主御殿庭園と末広山の南端に建てられた栖鳳楼の周囲につくられた栖鳳楼庭園、末広山西側の清水御門前の堀の一部を庭園化した清水御門御茶屋庭園の3つから成る。


藩主御殿庭園は、末広山東裾に南北に長く掘られた池の周囲と末広山東斜面に造られた庭園である。池の中央やや西寄りに中島がつくられ末広山側を切石橋、御殿側を木橋でつないでいる。御殿側池畔には、北側に巨大な平天石(喜藤次泣かせの石※1)、中央に童話碑になった船着石があり、巨石を効果的に配置していた。末広山東斜面中央から枯瀧が北向きに流れ、降りついたところで東にまがる。枯瀧にも多くの巨石が使われ、特に西側中ほどには高さ4メートルにもなる石が据えられている。また、枯瀧は三段の瀧になっている。枯瀧周囲の斜面にも巨石が配置され、特に南側の斜面と池畔の石組は見事である。藩主御殿から船着石の方向を見ると対岸に舟形石が見え、中島方向を見ると、栖鳳楼へ続く石段の途中に高さ3.5メートルの平たい方形の巨石が御殿を向いて据えられている。また、中島からの園路の途中の斜面に御殿に向いた灯籠がある。北側池畔は比較的小さな石を多用した石組であるが、庭園全体で見ると池畔のポイントとなる場所(喜藤次泣かせの石、船着石等)や枯瀧を中心にバランスよく巨石が使われている。


※1 喜藤次泣かせの石…喜藤次は三島宮(現末広神社)と庭園の造営に活躍した人夫使役。巨大な石を御殿裏御門前まで運んだがそれ以上全く進まず、流石に根気が尽きて地団駄を踏んで泣き出したという。そこで一乗寺の山伏を呼び祈祷し、何とか池畔に運ぶことができたためこの名で呼ばれるようになった。



 
栖鳳楼庭園
 

栖鳳楼庭園は、末広山の南端に造られた栖鳳楼の周囲につくられている。南東端に築山がつくられ、頂上部には三尊石や灯籠が立てられている。築山手前には平天石の礼拝石が据えられている。南側の石垣際にも石組が配置され、西端に石灯籠がある。栖鳳楼西側の斜面にも石が組まれ、さらにその西側に続く園路の斜面にも石が組まれている。斜面の石組は比較的小さな石が使用されているが、築山の前にある礼拝石や飛石、栖鳳楼西側の壁のような平石や一階二階の三か所の沓脱石等に巨石が多用されている。庭園の眺望は、茶室(一階)から眺めると、築山の背後に、メサである宝山とその前の山の稜線が右方へ続いている。右下方にはわずかに城下が見え、その奥に九重連山がわずかに臨める。一歩外に出ると、右下方の城下、右奥の九重連山がはっきりと現れる。書院(二階)南縁に立つと、手前中央には築山と城下町、左からは大岩扇山・小岩扇山・宝山と続く近景のメサの山並、右からは万年山・九重連山の遠景の山並とすべての景色が一望できるようになっている。



 
 
清水御門御茶屋庭園

 

これらの庭園は、それぞれの建物(藩主御殿庭園・清水御茶屋・栖鳳楼)の周囲に展開している。園路は、表参道・藩主御殿両方から栖鳳楼へとつながるようにつくられている。

この庭園は、栖鳳楼を頂点にして、それぞれの役割を持たせた三つの庭園を末広山の高低差と地形、眺望までも最大限に利用して配置し、園路によって有機的かつ効果的につながれた回遊式の庭園と考えられる。